無題

1

その頃、姉の影響もあってかにわかに児童文学にハマっていた俺は、ほぼ毎週のように市の図書館に通っては棚にある本を片っ端から読み漁っていた。バイトもせずに親からの仕送りだけで暮していたので金はなかったが、なにしろ暇だけなら売るほどあった。特に、俺のように非活動指向で目的意識に乏しい文系学生にとっての夏休みは輪をかけて暇であり、従って俺はその日もいつものように図書館に足を向けるのだった。

「よくお会いしますね」

その小柄な女性から声を掛けられた時、正直な話、俺は彼女のことなどまったく記憶になかった。棚に伸ばした手が止まり、声のした方に顔を向け、声の主と目が合い、念のため背後には誰もいないことを確認し、それから一呼吸置いて、そこでようやく、どうやらこれは人違いではなくこの女性というか少女が声を掛けた相手は間違いなく自分であるらしいぞと悟るに至る。

とまれ、ぼうと阿呆面を晒している場合ではなかった。今どき珍しい、黒くて真っ直ぐで腰まで伸びた綺麗な髪。背丈は俺の顎にも届かないくらいだから五尺とあるまい。顔立ちは、十人中八人は美人と評価するのではなかろうか。残りの二人は可愛いと評するであろうな。見とれている場合でもないと言うに。

慌てて記憶の糸を手繰ると、辛うじて一人の人物が検索条件にヒットした。絶対の確証を得られぬまま、ええいままよと切り出す。

「今日は、制服じゃないんですね」
「夏休みですから」

ビンゴ。花が咲いたような。この上なく陳腐な表現だが、まさしくそんな笑顔だった。本気でそう思ったのだ。思えばこれが一目惚れというやつであろう。まったくもって今更な話だが。

聞けば、彼女は先日とある本に感銘を受け、その感動を誰かと分かち合いたかったものの、不幸にも親、友人にもそうした本を読む人間がおらず、行き場のないフラストレーションを抱えていたところに、これまた先日、たまたまこの図書館でよく見掛ける、痩せて貧相で精気が薄くいかにも人畜無害そうな男(俺だ)が同じ本を手に取っていたのを見て、それからずっと声を掛けるタイミングを見計らっていたとのこと。

流石に見ず知らずの人間に実際に声を掛けるまでには相当の葛藤があったそうで、俺が無視も気味悪がりもせずに応じてくれたことが本当に嬉しかったらしい。それはお役に立ててなによりである。こうして俺と亜希との交際とも呼べぬ交流が始まったのであった。特に待ち合わせをするでもなく、割合として数日に一度、図書館で顔を合わせることがあれば少しばかりの話をする程度の関係である。

お互いが読んだ本の感想。学校の話。友達の話。家族の話。会話が盛り上がり過ぎて図書館から追い出されたこともあった。勉強を教えてあげたりもした。というか一緒に悩んだりもした。案外覚えてないものだな高校の授業。

俺は亜希に対して友達以上の関係を期待しなかった。あくまで年上に相応しくあるよう、冷静に、ストイックに振る舞うことを心掛けた。くだらない、どうしようもない見栄である。早い話が下心を悟られて軽蔑され嫌われるのが怖かったのだ。やがては努力の甲斐あって、最終的には自分自身さえをも欺くことに成功した。だからこそ、その時も俺は冷静でいられたのだと思う。

2

季節は移り梅の花が綻ぶ頃。亜希は高校を卒業した。俺もどうにか留年せずに済んだ。

「私ね、好きな人ができたんだ」

やあ、亜希は含羞んだ笑顔も可愛いな。話の内容はともかく。衝撃が半端ではないが、いずれにしてもここで取り乱してはこれまでの苦労が水の泡である。何より馬脚を現すタイミングとしては最低の部類に入るような気がする。あまりにも情けない。しかしどんな顔をすればいいのだ。

「ほほう。それは俺の知ってるやつかな」
「ううん。知らない人」

俺は亜希がクラスメートたちと図書館にいるのを何度か見ている。うち何人かとは話をしたこともある。その中にいた誰かかと尋ねると見せかけて、その実、万が一にもその相手が自分である可能性に望みを繋ぐ問いであったわけだが、現実はそこまで甘くはなかった。

俺が知らないということは、つまり俺自身ではあり得ない。もはや悲しいのか悔しいのか腹立たしいのか良く分からない感情が溢れ出しそうになった結果、俺の上位自我は改めて自分自身を言いくるめる方針を採択したらしい。これは、あれだ。娘を嫁にやる父親の気持ちだ。そもそも急にそんな話を切り出されたら驚いたって無理はない。逆にこう考えろ、この手の話を聞かせる相手と言えば普通は親友とかだろう。つまり俺は、それだけ亜希に信頼されているのだ。

「だったら是非とも紹介してもらわんとなあ」

だから、努めて冷静に、精一杯おどけて、俺は言った。

「俺の大事な亜希を、半端なやつに任せるわけにはいかん」

本当に、いっぱいいっぱいだった。それにしてもなんと言う悪足掻きか。こんな巫山戯た台詞に、亜希は少し驚いたような顔をしていたが、それから静かに微笑むと小さく、ありがとうと言ってくれた。少なくとも、嫌われずには済んだようだった。ともかく俺の感情はとっくに飽和しており、そうでなければ続く亜希の言葉をとても冷静に受け止めることなどできず、取り返しのつかない醜態を晒していたに違いない。

「それでね。だからもう、ここにはあんまり来なくなると思う」

ですよねー。……よし、冷静だ、俺。

「それは、まあ致し方あるまい。彼氏に痛くない腹探られても面白くなかろうしな」

その調子だ、俺。頑張れ、俺。まかり間違っても、まだ彼氏じゃないよと苦笑いを浮べる彼女に淡い期待など抱いてはなるまいぞ。亜希が惚れたのは俺が知らない男だ。そしてこの話を打ち明けられた時点で俺自身に脈のなきこと明白なのだから。せめて最期は潔く散ろうではないか。

「もちろん寂しくないと言えば嘘になるがな。よもや今生の別れでもあるまい」
「うん。だけど沢山お世話になったから。一度きちんとお礼を言っておきたかった。それじゃあ」

サヨウナラ。

3

その後、見事なまでに亜希と図書館で顔を合わせることはなかった。俺自身、件の日を境に児童文学への熱も急速に冷め、また誰が流したのやら大学では俺が女子高生にフラれたなどという根も葉もない噂がまことしやかに流れ、そのせいか妙に遊びやら飲みやらに誘われることが多くなり、自ずと図書館にから足が遠退くこととなった。それで良かった。あの図書館に通い続ける限り、女々しい期待と果てのない後悔から解放される日は永遠に来ないのだろうから。

とまあそんなわけで、その日病院の待ち合い室で亜希と再会したのはまったくの想定外であり、実に奇跡的な偶然だった。およそ一ヶ月もの間、悪友どもから散々お前はフラれたの嫌われたのと洗脳され続けた俺は、その悪魔の囁きを現実として受け止める一歩手前まで追い詰められており、まさか彼女の方から声を掛けてくれることがあるなどとは夢にも思わなかったのだ。そして恐らく、これはなんとも情け無い話ではあるが、声を掛けてもらわなければ、俺は目の前の少女が亜希だとは気付かなかったに違いない。

「むう。随分思い切ったイメチェンだな。一瞬分からなかったぞ」

最後にあの図書館で会った時には腰まであった髪が、うなじが見えるまでにばっさりと短く刈り込まれていた。

「やっぱり変ですか」
「とんでもない。むしろイイ。猫みたいだ」

しかし女子が髪を切るということは、と思った側から、失恋じゃないですよ、と亜希はまるでこちらの心を読んだかのように笑った。なるほど失恋したわけではなさそうだが、でも笑ってくれた。ざまあ見ろ竹村、俺は嫌われたわけじゃなかったみたいだぞ。

「でも吃驚した。今日はどうして病院に。風邪でも引いちゃいましたか」
「いや。友達が原チャで派手にコケて足折って入院したもんで。見舞にな。ほれ。前に話したことあると思うけど、竹村。あいつ」
「覚えてます。吉牛の人ですよね」

そうだった竹村。この再会はお前のお陰だ。退院したら吉牛奢ってやろう。それにしても吉牛の人。どんな記憶のされ方だ。そもそもそんな話したっけか。したような気がする。

「あいつのことはいいとして。亜希は介護とかそっちのアレか」
「そんなところです」

亜希が卒業したら介護関係の専門学校に進むという話は以前聞いた。なるほど長い髪は邪魔になりそうだ。

「どうやら忙しいみたいだな。図書館にはあれから全然行っていないのか。もっとも俺も人のことは言えないが」
「そうですね。でも忙しさが一段落したらまた行くと思います。行きたいな」

かくして、俺は再び暇を見付けては図書館に足を運ぶようになった。我ながら単純なものである。また亜希に会えるかもしれない。それだけで十分だった。一段落したらと言っていた以上は今日明日の話でもあるまいが、俺にはこの図書館がこの上なく素晴しい場所に思えて仕方がなかったのだ。なんと単純。なんと単細胞。

しかし、俺は今ほど己の単細胞を褒め称えたい気持ちになったことはない。なにしろ下手をしたら一生後悔するハメになるところだったのだから。

4

図書館の静寂は、その来訪者によって一撃で打ち破られた。前にもこの図書館で何度か会ったし、赤の他人ではないと言える程度には言葉も交している。亜希の友人で、確か、キーコと言ったはずだ。本名までは知らない。

「ああ良かった会えるとしたらここしかないと思ってたからもうここにいなかったら連絡先も知らないしってゆうか名前も知らないしホントに良かったてゆうか全然良くないんだけどだって私もお母さんがって私のお母さんがねあの娘のお母さんと電話で話してるの聞くまでホント全然知らなくってもうあの娘心配かけたくないとか馬鹿じゃないの逆に心配するっつうのそんで聞いたらお兄さんにも知らせてないってゆうし嘘までついて会わないようにしたとかもうホント何考えてんのか全然分かんなくてもうどんだけー」
「五月蝿い。落ち着け。場所を弁えろ。……亜希の話か」

一気にまくし立てられてさっぱり要領を得ないが、それでもあまり良くない知らせだということは理解できた。半べそで日本語の文法に喧嘩を売るかの如くに喚き散らすキーコの首を締め上げてとっとと要点を吐かせたい衝動を全力で堪えつつ、俺は極めて忍耐強くその暗号を解読することに神経を集中させた。つまり。早い話が。要するに。

「亜希に好きな男ができたという話は嘘だと」
「あーもーなにそれふざけてんのってゆうかなんで最初がそれなのもうホント信じらんないてゆうかあんたも馬鹿じゃないのあの娘も馬鹿だしホントあんたたちお似合いだわもう全然分かんないしてゆうか他に好きな男いたら毎日あんたに会うために図書館に通ったりするわけないじゃん常識ー」
「ちょっと待て。いいから待て。黙れ」

何だと。

「いいか良く聞けいくらなんでも俺は毎日ここに通うほど暇じゃないぞいや暇を持て余していたことは紛れもない事実だがそれでも一応週に四日は講義があるし大学は俺の部屋を跨いでちょうどこの図書館と反対方向だしここも火曜日は休館日だし大体亜希が毎日来てたなら俺がここに来れば必ず会えたはずだがそんなことはなく会えなくてがっかりしたのは一度や二度じゃないしてゆうかいずれにせよ俺は毎日はここに来ていない」

いかん。ちょっと感染った。

「それでも、あの娘は毎日来てたの」

キーコが怒鳴り声が館内に響き渡ったところで、俺たちは図書館から叩き出された。これは暫くの出入り禁止は間違いなかろう。

5

「出来れば説明願いたい」

病室のベッドの上の亜希は、随分と小さく見えた。元々白かった肌は青いほどに白く。腕や首などは乱暴に掴んだらそれだけで折れてしまいそうなほどに細く。可哀そうとか、痛々しいとかではなく、ただ、ただ、見るほどに胸が苦しかった。

「と言ってもだ。大まかなところは廊下にいるキーコとキーコ母から聞いている。しかしなんだ、プライバシーもなにもあったもんじゃないなあの母子。じゃなくて、難しい病気だそうだが、手術で治るそうでなにより。僥倖である。桃缶食うか」

何を言っているのだ俺は。これから三度を数える手術を控えた人間に対して、僥倖とはあまりにも軽率に過ぎる。愚かにも程度があるぞ。それに何だ。この場面で言うに事欠いて桃缶とは。案の定、亜希は静かに首を振る。それ見たことか。やはり病気のランク的に桃缶ではご馳走力が足りないに違いない。通用するのはせいぜいインフルエンザまでと言ったところか。

だいたい七缶も買ってきてどうする気だ。とりあえず花瓶の横に積んでみる。

さて。色々聞きたいことはあったはずだが、どうにも言葉にならない。亜希がそこにいるだけで、もう何もかもがどうでも良くなっている俺がいた。生命の危機を前にして、何故亜希が友人知人を遠ざけんとする心境に至ったか、それは本人が語ろうとせぬ以上は知る由もない。心配をかけたくなかったというのは本心であろうし、病気で弱ってゆく自分を見られたくないというオトメゴコロもあったろう。

要するに亜希には亜希なりの美意識があり、それはもしかしたら他人から見たら理解し難いものかも知れず、あるいはひどく滑稽なものだったのかも知れない。何ということもない。俺だって同じだ。きっと誰もが同じなのだ。見栄を張って、格好をつけて、嫌われないように、軽蔑されないように、みっともなくても、滑稽でも、思い込みでも、勘違いでも。ただ、大切に想う相手と少しでも永くの時間を過ごせることを願って。

それなのにいつか迷って、どこかで間違って、見失って、もう何のためかも誰のためかも分からなくなって、最後の最後でようやく気付いた頃には後悔しか残っていないかもしれない。俺は幸いにも今気付くことが出来た。これこそ僥倖と言わずして何と言おう。

だから。一番大事なことを誤魔化さず、全ての虚飾をかなぐり捨てて、今はっきりと言葉にして伝えなければならない。俺は恐る恐る亜希の手を取った。亜希は静かに微笑んでいる。その目にはうっすらと涙を浮べて。よし。嫌がってない。多分。大丈夫だ、行け、俺。

「亜希。俺はずっと――」

6

三ヶ月後。

なんとそこには元気に走り回るジョンの姿g(間違えました。本当の続きを表示するにはワッフルワッフル(ry)


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